“藤沢西高校のボランティア部・美術部”のみなさんに樹名板を制作・設置していただきました。
2023年12月26日(火)に藤沢西高校のボランティア部の皆さんと一緒に、藤沢市大庭台墓園東休憩所に樹名板を設置しました。
この樹名板は昨年の夏休み期間中に西高校のボランティア部、美術部および有志の生徒さんに端材を利用して制作していただいた樹名板です。(40枚)
色鮮やかで個性豊かな樹名板が設置できました。ご協力ありがとうございました。
2023年12月26日(火)に藤沢西高校のボランティア部の皆さんと一緒に、藤沢市大庭台墓園東休憩所に樹名板を設置しました。
この樹名板は昨年の夏休み期間中に西高校のボランティア部、美術部および有志の生徒さんに端材を利用して制作していただいた樹名板です。(40枚)
色鮮やかで個性豊かな樹名板が設置できました。ご協力ありがとうございました。
1649年、名主小泉与右衛門の夢枕に不動明王が立ち「明王は水中におわしますぞ」と7夜にわたり告げた。村中総出で水中を探索させたところ、滝の辺りから古い銅釜に小銭がたくさん詰まった中から一体の不動明王像が現われた。名主と村人は驚き、この不動明王像、滝出現不動尊を皇子大権現(現在の皇子大神)に奉安した。
それから5年後の1654年、地頭の長田喜左衛門重昌が病気になり、名主は不動明王に三十三日間の子の刻参りを行ったところ、霊験により病が回復した。長田氏は翌年堂を建立し、奉拝したという。現在、不動明王像が発見された滝は埋め立てられ、人工池に姿を変えている。
なお、平成3年に「滝不動尊夢次第書」という古文書が発見されている。
旧暦3月28日の滝不動の縁日(葛原の滝出現不動尊の例祭)では草競馬が行われ、400mの廻り馬場で近隣の農耕馬達がその速さを競いあった。はじめは直線200mの馬場で、すぐに終わってしまうので鉄砲馬場と呼ばれていた。
この日は露天商も並び、10キロ以上離れたところからも徒歩で人々が集まり、多い時で数千の人と50頭もの馬で身動きのできないほどの賑わいだった。またこの祭りをきっかけに若い男女が結ばれたので「見合競馬」とも呼ばれていた。
しかし機械化が進み、馬の姿が村から姿を消し始めた昭和20年代初めに草競馬は中止された。
滝出現不動尊
**2006年11月1日撮影**
滝出現不動尊 人工池
**2006年11月1日撮影**
後三年の役に出陣の際、鎌倉権五郎景政が戦勝祈願をした。戦勝報告の際に神社の松の根元に兜を埋めたことから、兜山(かぶとやま)の兜松(かぶとまつ)と呼ばれた。御霊神社と隣りあっている矢竹稲荷は、景政が後三年の役の戦(いくさ)の折、飛んできた矢に眼を射られ、その矢をこの地に挿したところ矢竹が根づいて、生い茂ったものだと言われ、のちに祀られたのが矢竹稲荷だという。16歳だった景政は、矢に眼を射られながらも、渾身の力で敵に矢を射返したため、人々はその勇猛な戦いぶりを賞めたたえ、御霊神社に祀ったと伝えられている。
また付近には、景政が生まれた五反畑、産湯をつかった三日月井戸、戦で傷ついた目を洗った四ツ田などの伝承が残されている。
昭和39年、東京オリンピック開催により首都高速道路が建設され、江戸城の北の丸、千鳥淵の石垣が一部取除かれたが、その礎石や石垣の石が村岡城跡に運ばれ、区画整理記念碑が作られた。
その石は、1603年(慶長8)に江戸に幕府を開いた徳川家康の江戸城修築の際、加賀の職人たちが石垣に適した安山岩や玄武岩を真鶴や伊豆半島から切り出し、奥州の大名が修復に用いた由緒あるものである。
昭和51年当時の記念碑
現在(平成16年)の記念碑
右側の祠(ほこら)は渡内四丁目一番(県道小袋谷・藤沢線沿いの「渡内」バス停北側)辺りにあったもので、平成十年(一九九八)区画整理事業に伴い移設したものです。
中央の祠は峯渡内村の名主家にあったもので、その位置は現在地より東に七〇メートルほど行ったところです。平成二十年(二〇〇八)区画整理事業に伴い移設したものです。
左側の祠は壺井三社大権現で、現在地より北東に一四〇メートル程行った藤沢市本在寺公園の山頂に祀ってあったものです。壺井三社大権現とは、源頼義・義家父子の二人に加えて徳川家康の分霊を祭った祠のことをいいます。
石の祠(ほこら) **2011年1月25日撮影**
「葛原親王が御所を眺めた」また「葛原の垂木御所を見ることができた」といわれる塚。広さ30坪、直径10数メートル、高さ5メートルという説、直径4メートル、高さ1.5メートルほどの人造の円塚という説もある。1961年(昭和36年)頃まで菖蒲沢の個人の敷地内に実在したが、現在は工場の敷地となっている。昭和63年に御所見市民センターの敷地内に「御所見塚記念碑」が設立されている。
用田で土器や石器が発掘されており、石器時代から人が住んでいたようである。打戻にある宇都母知神社(うつもちじんじゃ)は、平安時代中期以前からあるとされる。この地の高台からは、西方に大山、丹沢、遠くは富士山などのやまなみを眺めることが出来る。
獺郷の名は、沼地に獺(かわうそ)がたくさん住んでいたためついた地名とされている。
その昔は胸まで浸かるくらい深い湿田が多く、耕作が大変であったが、現在は耕地整備や土地改良が行われ、乾田となっている。
菖蒲沢の名は、沢地に水草、菖蒲などが生えていたことから由来するといわれ、ある時期に葛原村から分村してできた村であるといわれる。水田は少なく、畑と竹林が目を引き、民家では養蚕が行われていた。現在の菖蒲沢団地付近を流れる一色川は、水量が豊富で、ウナギがよく獲れたという。
昭和30年代からの開発により、その風景は宅地や工場に姿を変えている。
日本の海水浴場は、1885年(明治18年)に陸軍軍医総監 松本順が、医療のために土地の有力者を動かして開いた大磯が一番古いとされている。
戦国時代に入り北条早雲によって攻められるが、城主・上杉朝良の必死の防戦と、城の周囲の水で、戦いの決着はなかなかつかなかった。あるとき、北条方の間者が旅人を装って茶屋の老婆から「大庭城のまわりの沼は引地川からの引水で、取水口の堰を止めて、下の堰を開ければ水が枯れる」ということを聞きだした。そしてその口を封じるために、何の罪もない老婆を一刀のもとに殺害してしまった。
大庭城は落城し、のちに村人は憐れな老婆の霊を慰めるために舟に乗った地蔵、舟地蔵を建てたという。舟地蔵は現在、藤沢厚木線と藤沢平塚線の交差点[舟地蔵]そばに祀られている。
この地を流れる境川はよく氾濫し、金沢橋あたりでよく淵(ふち)ができていた。その地で盲目の旅芸人が溺死し、瞽女淵(ごぜぶち)と呼ばれるようになったという。またあるとき、流れ者の侍が川の氾濫を防ぐべく、書置きをして身を犠牲にしている。土手番さまと呼ばれているこの侍の大小の刀は、現在も花応院に保管されているという。
亀井神社、八幡宮、雲昌寺(瑞龍寺)、花応院、小栗判官ゆかりの小栗塚など史跡が多い。また、今田の鯖(さば)神社と石川の佐波(さば)神社は、祭神を左馬神義朝(頼朝の父)としている。この他にも境川中流域には、サバ神社が10ヵ所あるが、左波、鯖、佐婆、左馬の字があてられている。
現在、団地や海浜公園、小学校などが建てられているこの砂丘は、江戸時代から太平洋戦争が終わるまで砲弾等の演習場であった。砂丘の松林にはキノコなどがたくさん自生しており、演習のない日には子供たちがキノコ狩りをして夕げの食卓にのせていたものである。
砂丘から北側も砂地であったが、温暖な気候を生かした早期栽培を行う農地であった。
また戦前には先の尖った果肉の真っ赤な天津桃の畑がたくさん見られたが、戦時中の普通作物への転作により、里芋、さつまいも、黄色の甜瓜や麦、稲などの田畑となったようである。その後、高度経済成長とともに周辺地域の宅地化開発が進み、一部区画整理も行われ、現在の街並みになっている。
1182年(寿永元年)源頼朝は、京都から文覚(もんかく)上人を招き、戦勝を祈願して岩屋を参詣した。大弁財天像を勧請したと伝えられている。
江戸時代になると、人々の暮しは安定し、さらに街道の整備もすすんで、江の島は参詣者で賑いを増した。弁財天は商売繁盛、弁舌、芸術、病気祈願、豊作祈願の信仰対象となっている。徳川将軍家も歴代、江の島弁財天を厚く信仰している。人々が干潮のときあらわれる白砂を踏み霊地を訪れる姿は、浮世絵にも多く描かれている。
棟梁を務めた森家を中心とする、遊行寺や小田原城、玉縄城を造った職人「藤沢大鋸引(おおがひき)」たちが住んでいたといわれる。
1590年(天正18)、北条氏を滅ぼした秀吉は天下統一を成し遂げ、徳川家康を関東に移封(いほう)する。秘かに野心を抱く家康は鷹狩りという名目で関東各地を巡察した。
当時はまだ宿場も整っておらず、家康は当初、各地区の土豪の家や寺院を休憩、宿泊に使った。のちに家康は将軍専用の「お茶屋」や「御殿」を設置したが、相模国内はお茶屋4ヵ所、御殿5ヵ所が置かれた。
徳川家康が休泊した藤沢御殿は、鷹狩りのときだけではなく、関ケ原の戦いや、大阪冬の陣、夏の陣に向かうとき、あるいは上洛の途中にも、家康、秀忠、家光などによって利用された。
御殿は妙善寺から藤沢公民館にかけての敷地、東西106間(約193m)、南北62間(約113m)という広大なものからなり、現在の日枝神社のところに御座所と呼ばれる寝所があった。
善行坂一丁目付近は、茅(かや)が生い茂っていたことから茅山(かやま)と呼ばれていた。この地で取れる茅は、昭和の初め頃まで、草葺屋根の材料や農業用資材として用いられていたが、戦時中に作物畑へと代えられていった。
坂道が多く、畑への道は鍬(くわ)などを担ぎ、3歩進んでは2歩下がるような赤土の悪路もあり、その道は大雨が降るたびに流されたようである。車が使えず、肥料も思うように運べない畑での収穫は、狸(たぬき)に悪戯(いたずら)されたことも度々あったといわれる。。
藤沢ゴルフ場は昭和18年に閉鎖され、付近は飛行場や兵舎のある軍事基地となった。戦後ゴルフ場跡は、現在の県立体育センター、商業高校、修道院などに生れ変わった。昭和35年小田急線善行駅が開設され、同じ頃飛行場跡地は企業用地となった。
さらに昭和40年には善行団地が完成し、翌年に入居が始まり、善行小学校が開校している。
なお、県立体育センター内では今でも、昭和7年にゴルフ場のクラブハウスとして完成した「グリーンハウス」のシックな姿を見ることができる。