用田と宮原のおはなし
用田の名は、相模国一ノ宮である寒川神社の「御用田」があったことに由来するといわれ、戦国時代初期にはその名が定着していたようである。用田辻付近は、大山街道・中原街道・厚木街道と合流するところであり、旅籠や茶屋で賑わっていたようである。
宮原(みやばら)の名は、同じ寒川神社の「宮地」であった原野を開拓した地であることからきた名といわれる。 その昔、宮原村には西宮原と東宮原といわれる場所があったが、年貢の取立てや助郷役の負担を減らすため、西宮原は現在の寒川町の一部に、東宮原は現在の獺郷(おそごう)の一部になったといわれている。
宮原の中を流れる目久尻川(めくじりがわ)は、部落の水争いから「目くじらを立てること」が川の名になったといわれる。
目久尻川(宮原付近)
**昭和45年頃**