江ノ島のおはなし その2
江の島は、古くは榎島、得瑞島、荏島などさまざまな文字で書かれている。その名の起こりは、入り江の中の島という意味ではないか、また「江」の文字に似ているからなど諸説ある。
江の島は大昔、片瀬山や腰越と陸続きだったが、浸蝕作用や地殻変動によって現在の島の形を形成したといわれている。また吾妻鏡によれば、鎌倉時代に江の島が隆起し、引き潮の時に砂州が現れるようになったとされている。島へ渡る橋がない時代は、引き潮の時には砂州を徒歩で渡り、満ち潮の時には人足の肩を借りて渡るか、舟で渡ったという。
島への橋は、人足や船頭の反対で架けられることがなく、はじめて完成したのは明治24年(1891年)で村営の桟橋であった。また明治29年(1896年)から昭和38年(1963年)までは、橋を渡るための通行料があった。昭和33年(1958年)江の島桟橋は「江の島弁天橋」と名付けられ、車専用の橋である「江の島大橋」が架けられたのは、昭和37年(1963年)である。
島では多くの海産物が獲れ、島付近ではサザエ、アワビ、イセエビ、タイ、タコなど、沖合いではカジキ、マグロ、ブリなどがあったようである。徳川家康が藤沢御殿へ休泊した際には、島の漁師が獲った魚を納めていたという。また貝細工は源頼朝の時代からの特産品といわれる。
江の島弁天橋(右)、江の島大橋(左)
**昭和45年頃**